2022年6月に「フェイクニュース問題とインターネット広告業界の関係」をテーマに、フェイクニュースセミナー第1弾(0から学ぶフェイクニュース勉強会セミナー)を開催しました。第1弾セミナーでは「フェイクニュースとは」をテーマにした勉強会と、フェイクニュースとインターネット広告の関係に焦点を当てたパネルディスカッションを行いました。第1弾セミナー内で取り上げたロシア・ウクライナ紛争や、新型コロナウイルス感染拡大によるフェイクニュース拡散の問題は依然として継続しています。
方法とは?
ヒントを得る
第2弾となる今回のセミナーでは、もう一歩踏み込んだテーマを取り扱います。例えば、欧州デジタルメディア観測所(EDMO)が2022年に改訂した行動規範の一つには、「フェイクニュースを拡散するサイトやアカウントのディスマネタイズ(非収益化)」が掲げられています。これを日本社会に実装するためにはどうしたら良いのか、また、その主幹となるインターネット広告業界がとるべきアクションについてディスカッションいたしました。
本記事は、セミナーから一部抜粋しテキスト化し、後から解説を加えたたものです。セミナー全体を視聴されたい方はこちらからご覧ください。
【文字起こし】メディアリテラシー向上の実効性とは?
- フェイクニュース対策におけるメディアリテラシー向上の実効性について、どうお考えですか?
藤代 裕之(法政大学):メディアリテラシーを推奨しようとしている人たちが誰なのかを考えると、よくわかると思います。
メディアリテラシーが大事だと言っている人たちは、大体プラットフォーマーです。新聞やテレビの人たちは、それほど言わない。メディアリテラシーよりも「自分たちが出しているものを見ればいい」と言う。だからネットで燃えたりするわけです。
ではなぜ通信事業者やGAFAは、メディアリテラシーが大事だと言うのか。それは汚染されたものを出しているからです。単純にお店に例えると、よくわかります。
例えば「この店で食べるものはよく選んでください」と書いてある店で買いますか?私たちはそういう状況のことを、「リテラシーが素晴らしい」と言っているわけです。
そうではなくて、リテラシーは考えなくていいほうがよほどマトモな社会です。もちろん「これは腐っているのかも」「日付がヤバそうだな」程度のリテラシーは、最低限必要ですが。
しかしスーパーなどに陳列されているものは、日付を超えていないと考えるのがまともな消費者の感覚でしょう。日付が近づいたら、例えば3割引になっているとかですね。それぐらいの感覚でインターネットが使えるようにならないと、お子さんからお年寄りまでみんな騙されてしまいます。
(自らのメディアリテラシーを頼りにフェイクニュースで)汚染された河川の中で泳げと言われたり汚染水を飲んでくださいと言われたりしても無理ですよね。汚染をもっと除去してくれたら、飲んでみて「これはちょっと腐っているな」と判断できると思いますけれど。
口にしたら大変なことになる汚染状態の中で「この水をきれいにしてください」と言われても、(一般ユーザーは)特殊レンジャー部隊ではありませんからサバイブできません。
それを求めるのは、情報インフラとしては不適格だと思います。
西田 亮介(東京工業大学):メディアリテラシーの考え方は、とても自己責任的です。
「リスクはたくさんありますから各自対処してください」というのは、能力の非対称性についての想像力を欠いていると思います。プラットフォーム事業者も、コンテンツを作って流通させている各事業者も含めてです。
これはネットも新聞もテレビもそうだと思いますけれども、基本的にはみんな儲けたいと思っています。そのため気合が入っていて、ノウハウもたくさん持っているしお金もたくさん使って、我々のアテンションを取りに来ているわけです。
それに対して我々は、ぼーっと生きています。このように大きな非対称性がある中で、個々人がお金を儲ける気合が入っている事業者と対峙するのは、無責任で不可能なことです。このように考えることが、大前提だと思います。
まとめるとメディアリテラシーについては理想としてはわかるけれども、実効性を見極めると期待できない取り組みだと捉えたほうがよいと思います。メディアリテラシー対策について考えてみると、多くの事業者にとっては低コストで済むわけです。他所に丸投げして、例えば教育のせいだとか人々の能力が低いので騙されるのだとか、他責にできる。
またメディアリテラシーは規制ではありませんから、役所にとっても規制をやらなくてよいというエクスキューズになり、法律を作ったりしなくてもよい。この分野は表現の自由、内心の秘密や通信の秘密にも関わってくるので、実際に規制するのは難しいのです。
そのため民間で解決されているほうが都合がいいので、みんなの利益が合致してメディアリテラシーを推進しましょうという雰囲気になっています。
ただメディアリテラシーを向上させると「フェイクニュースや偽情報に騙されない」という、有効なエビデンスが欲しいと思います。細かい事例は積み重なっていますけれども、大規模にあるディスインフォメーションに対して、メディアリテラシーの高い低いで騙される騙されないが影響されるという事例を僕は見たことがありませんから。
有効なエビデンスを提示できないのであれば、メディテリテラシー対策の理念はわかるけれども、実効的な対策の中核に位置付けるべきではないと思います。そのことによって、他の事業者の責任が免責されてしまうと思うからです。
≫≫ フェイクニュース対策はどうしたらいいの?フェイクニュースを掲載してしまうことが多いメディアとは
【解題】社会問題化するフェイクニュースへの処方箋とされるメディアリテラシーとは
メディアで流通している情報には、程度の差こそあれ発信側からのメッセージが込められています。事実をそのまま伝えるのではなく、人の手が加わり構成・加工されている点に注意が必要です。実際に2016年の米国大統領選挙や新型コロナウイルスなどにまつわるフェイクニュースの拡散は、大きな社会問題となっています。
また博報堂DYメディアパートナーズによってリリースされた「メディア定点調査2022」によると、メディア総接触時間は1日あたり445.5分(週平均)と高い水準で推移していることがわかりました。「携帯電話/スマホ」の接触時間は「テレビ」を押さえて首位になるなど、メディアサービスのデジタル化が進んでいます。調査で明らかになった若年層の間で見られる新しい行動が、インターネットを介した「つなぎっぱなしのコミュニケーションやコンテンツ同時視聴」です。このようにメディアとの関わりが大きく変化する中、騙されないようにメディアリテラシーを身に付けるべきだという議論が散見されます。
ここでは今注目のメディアリテラシーの概要や、問題視されているフェイクニュースについて詳しく見ていきましょう。
注目されるメディアリテラシーとは
メディアリテラシーは非常に注目されていますが、論者によって異なる解釈で使われており、実は定義が混乱しています。例えばメディアリテラシーとは、総務省によると次の3つの要素を含む複合的な能力のことです。
- メディア情報を主体的に読み解く能力
- メディアにアクセスして、情報を活用する能力
- メディアとコミュニケーションする能力
しかし上記の定義は、UNESCOや米国・EUで広く浸透している言葉の定義と比べると「情報リテラシー」に該当するという指摘もあります。
以下は、その他の代表的な定義です。
出典 |
メディアリテラシーの定義 |
NHK |
メディアの意味と特性を理解した上で、受け手として情報を読み解き、送り手として情報を表現・発信するとともに、メディアのあり方を考え、行動していくことができる能力 |
National Association for Media Literacy Education |
あらゆるコミュニケーション手段を用いてアクセス、分析、評価、創造、行動する能力 |
UNESCO |
・民主主義社会におけるメディアの機能と役割を理解する ・メディアがその機能を十分に発揮しうる条件を理解する ・メディア機能の観点からメディアコンテンツを批判的に評価する ・自己表現、異文化間対話、民主主義的参加のためにメディアに取り込む ・ユーザーコンテンツを創造するのに、必要なスキル(ICTを含む)を身につけて用いる |
上記の定義を見るとわかるとおり、どちらかというとメディアリテラシーは自己責任的な考え方であり、規制といった類のものではありません。
≫≫ フェイクニュース対策の鍵はNHKかも?SoLTの取組や議論を解説
なぜフェイクニュースは問題視されているのか
フェイクニュースの拡散が社会的に問題視されている理由の1つとして、有権者の適切な意思決定を阻害する可能性が指摘されています。昨今では、ソーシャルメディアを介して虚実入り交じった情報が熱狂的に拡散されている点が問題視されているわけです。中には、特定の国や団体、著名人などの名誉や信頼を失墜させる攻撃的な内容も少なくありません。バッシングを受けた側の名誉や信頼を回復させることは容易ではなく、長期間に渡って損なわれ続けます。後から誤った情報が拡散されていたことがわかっても、その訂正情報が攻撃時と同じ熱量で拡散されることは稀だからです。
フェイクニュースの読み手が感じた強い不安や怒りの感情は一気に伝播し、他の人の感情も煽られてしまいます。このようにフェイクニュースの拡散は、社会的に悪影響を与えることが問題視されているのです。
フェイクニュース対策としての法規制の危険性
そもそも完全無欠な情報はあり得えないことから虚偽と事実の区別は困難を極め、抜本的なフェイクニュース対策は難しいと言えるでしょう。例えば政策的な対応として法規制を強めるのは、表現の自由、内心の秘密や通信の秘密などに関わることから大きなリスクを抱えることになります。
例えばマレーシアでは、かつてフェイクニュース作成者を処罰する対策法を施行していました。しかし当時のナジブ政権は、政敵を調査対象とするなど恣意的かつ抑圧的な運用をしていたのです。そのため政権交代後の2019年に、廃止が決まりました。
法規制を強めるのは現実的ではないことから、教育・啓発という観点で注目されているのがメディアリテラシーだというわけです。子どもから大人まで、情報の受信・発信側の双方がメディアリテラシーを身に付けることを求める声が高まっています。
近年ではSNSが普及し、誰もが簡単に情報の受け手から発信側になれるようになりました。そのため社会に向けて自らの考えを発信するコミュニケーション能力についても、習得・訓練が必要だと考えられています。実際に社会を生き抜くために必要なスキルとして、1990年代以降、メディアリテラシー教育が学校等で行われているのです。
しかしその一方で、フェイクニュース対策としてのメディアリテラシーの効果を疑問視する声も存在することを知っておきましょう。
フェイクニュース問題が深刻化している2つの理由
ここではとくにインターネット上で拡散しているフェイクニュース問題が深刻化している理由を、次のとおり2つご紹介します。
- 情報発信者が親しい人だと虚偽でも信じてしまう
- フィルターバブルによって好みに合わない情報は遮断される
ではそれぞれの理由について、詳しく見ていきましょう。
1. 情報発信者が親しい人だと虚偽でも信じてしまう
人間は、無意識に偏った判断をすることがあります。とくに情報発信者が親しい友人や家族であれば、安易に「信頼できる」と思いがちです。SNSを使って友人が共有してくれたニュースを、他のメディアが発信しているニュースよりも信頼する傾向にあります。
先述した「つなぎっぱなしのコミュニケーションやコンテンツ同時視聴」が当たり前になれば、もっと仲間内の情報交換だけに夢中になるかもしれません。しかも頻繁に共有されるニュースには、「誰かに教えたい要素」や「感情に訴える要素」が含まれていることが多いのです。
マスメディアでさえもネット上で気になる話題の言説を報道することで、フェイクニュース拡散に加担することがあります。そのためフェイクニュースの拡散を止めることは、非常に難しいと言えるでしょう。
2. フィルターバブルによって好みに合わない情報は遮断される
SNSユーザーの間では、ユーザーにとって興味関心のない情報は自動的に遮断される「フィルターバブル」という現象が起きています。プロフィールや検索履歴から配信をパーソナル化するアルゴリズムが、SNSには搭載されていることをご存じでしょう。これは数多くの情報の中からユーザーが「見たい」「読みたい」と思う情報のみが表示される仕組みです。
アルゴリズムによって自分好みの情報ばかりに囲まれていると、それが世の中の標準だと自信過剰になってしまう現象がフィルターバブルです。自分の信じたいものを選び、さらにアルゴリズムがその選択を支援してくれる環境の中では、フェイクニュースの拡散は必然とも言えます。
≫≫ フェイクニュース対策、見分け方や広告主にできることはなに?
メディアリテラシーがフェイクニュース対策の決定打にならない理由
個人がメディアリテラシーをスキルとして身に付けたからと言って、フェイクニュースを見抜くことは実際には現実的ではないと言わざるをえません。フェイクニュース対策の決定打にならない理由は、技術、心理、情報インフラの3要素において配信側が圧倒的に個人のスキルを凌駕しているからです。
近年ではAI技術を駆使した精緻なフェイク動画の作成が可能であり、専門家ですら見抜けないことがあります。心理面においては、先述したとおり人間には信じたいものを信じる傾向があるためです。SNSという情報インフラに身をおいていると、多様な情報に触れる機会を逃してしまいます。
つまりSNSユーザーは、誘惑に負けないほうがおかしいほどの膨大な数のアテンションの要求を絶え間なく受けているのです。以上を踏まえると、メディアリテラシーを身に付けたから個人レベルで対抗できるという考え方は現実的ではないと言えるでしょう。
メディアリテラシー向上が実効的な対策の中核を担うのは難しい
メディアリテラシー教育のあり方が見直されるなどして、将来的に個人のスキルが高まる可能性もゼロではありません。しかし現時点において、即効性を求めてメディアリテラシー向上が実効的な対策の中核を担うのは難しいと言えるでしょう。
SNSが普及している中、個々人が気力を充実させて批判的・分析的にニュースを読み解く習慣づけをすることは、ほぼあり得ないからです。あらためて情報インフラのあり方も議論される必要があると言えます。